1: 名無しさん@おーぷん 22/08/17(水) 11:24:37 ID:dts8
たとえばハイデッガーの『形而上(けいじじょう)学とは何か』(1929)によれば、
事実的な対象としてある事物=存在者をすべて退去、滑落させる「不安」の情態性において、個々的な事実=存在者では「無い」ところの「無」が開示される。
しかも、「不安の無の明るい夜」に開示されるその「無」のうちに、人間が情態(気分)的に己を投入することは、あれこれの存在者を全体として滑落させつつ越える「超越」の生起であり、
この超越は個々的事実としての存在者に対する漠たる対立という以上に、存在者を存在者たらしめる根拠である「存在」に聴従することである。
それゆえ、この種の用法における「無」は、存在者とは区別される限りでの「存在」そのものに近づく。

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Source: 哲学ニュースnwk